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ジュラ電のごとく
こんちわ。
ジュラルミンといえばユンカース、ではなくて最初だしやっぱ浦和な話題から。
そういや「アルミニウムマニア*」つうサイトがあったなと思って見てたら、国産初のアルミ電車を紹介してて、その写真のサボが「URAWA」


ジュラ電(1947-54)は戦中設計の国鉄モハ63形。形式自体は、ない材料でいかに大量動員可能な電車をつくるかという命題から生まれたようだが、動員すれば生産向上という状況でももうなかったろうにと思うのはさておいて(私鉄も含めラッシュ輸送用の車両の基本[20メートル/4ドア]はここにあり。209系に座席収納車[6扉車]が投入された時に蒸し返されてたがまあ根は同じ)
GHQによって航空機産業が解体されたため余っていたジュラルミンの民需転換、とややヤケクソ風味の背景そのままに、ジュラ電は銀色の室内に初の蛍光灯搭載…とヘッズなみなさんにはたまらん仕様だったよーだが、ラッカーを塗っただけといわれる外板はすぐに腐食し、台枠が普通鋼のために電食も避けられず。そこに追い討ちをかけたのが1951年の「桜木町事故」。切れた架線にパンタグラフが絡まり…今なら停電かなぁ、構内ならいいけどトンネルとか山の中だといやだなあってとこだが、この木造のモハ63形は先頭車両が全焼、窓は真ん中固定の3段式(←でかいガラスがつくれなかった)、連結部の扉は内開き方式(=人が殺到すると開けられない)、ドアコックも不案内なプアな設計がアダとなり乗客106名が死亡。ほどなくモハ63形はモハ72形、クモハ73形に改造され、ジュラ電はそのまま消滅。この改造のされ方があまりに統一感がなくて、1980年頃までの鉄道旅行の楽しみのひとつになってたかも。3段窓のままのものはさすがに2段目が可動式になったが、開けるコツがいまいちわからず他力本願で通したりして。。
しかしこの話を幼い頃にきかされたせいでたまに夢でうなされます。「開けてくれ~」(←それはウルトラQ)

「浦和行」

ところで今はなき「浦和行」。折り返し設備はどこにあったんでしょうか。
イトーヨーカドーの脇から東口側に抜ける地下道(RED VOLTAGEから駒場へ向かうときに通るとこ)のあたりに昔は有人の踏み切りがあって、京浜東北線の折り返し線もあったと父からきいたことがあるが、本当かな。そのうち古い地図でも見てみますか。南浦和駅が開業(1961年)してあっさり南浦和行に変わったんすかね? そもそもなんで京浜東北線の半分が南浦和で折り返す必要があったのか…電車区(名前は浦和電車区、1962年創立)があるから都合がいいのは確かだけどそれなら東十条/赤羽止まりと同様ラッシュ時間帯前後だけでいいはずで。中距離電車がすべて浦和に停車し、埼京線というバイパスもでき、南浦和が武蔵野線との乗換駅として機能している今はまだ理解できるが、浦和にラッシュ時以外中距離電車が停車しなかった1982年以前から本数は約半分だった。武蔵野線は昼間は1時間に1本しかない閑散ダイヤで(しかも西浦和古タイヤ火災のときは平気で1カ月不通にするし←実際それで問題とされたのは貨物輸送だけだし)、別に南浦和がターミナルだったわけじゃなかったのに納得いかねー。
と冷静さを欠いてますが、要は再開発で伊勢丹ができた1982年以前の浦和は、役所や学校以外、余所から人が集まるような街じゃなかったってことです。浦和電車区についてはまた今度。


去年の最終戦の日、西川口の大叔母の通夜に駒場から直行し、こんなことでもなければまた来ることもなかっただろう縁側から庭越しに見える京浜東北線をただぼんやり。
幼い頃、ここへ来るたびに汚い茶色(鉄道模型界ではぶどう色というらしい…)の電車(73系ですな)が減り、万博の翌夏、青い電車ばかりになった。茶色い電車の走り出すときの釣り掛け音が好きだったくせに、ストレートな103系は文句なしにカッコよく思えた。
その夜、209系のVVVF音は聞こえなかった。

vvvf…
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by digibi | 2004-08-07 19:17 | はじめに